lal banshees「海底に雪」リクリエーションについてぽろぽろ書き残していきます

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20211110

2018年冬に作った作品で2019年1月に初演。
横山のソロ「水溶媒音」とトリオ作品「海底に雪」の海二部作として上演したもの。公演タイトルは「本当は、知らない」
2020年2月にソロ作品「水溶媒音」short ver.を再演。
2021年3月にトリオ作品「海底に雪」short ver.を再演。
2021年12月にトリオ作品二度目の再演をすることになった。

再演を増やしていきたいと思っていたので、再演は嬉しい反面、経験してみてわかったこともある。
作った当時のものをそのままできない。

初演時、横山は出演せず、3名のダンサーで制作。
この時から、同じような背丈で同じような髪型、といった似たようなビジュアルの3名でやることを前提としていた。
規則性のためにそうしたわけではない。

ダンサーを確保する問題もあるけれど、それよりも、自分が踊ることで違和感を感じる。恐らく、出演しないでも感じると思う。
でもそれが、ソロ作品よりもトリオ作品の方に強く感じる。

三度目の上演に向けてリハーサルが始まった。
これはこのままやっていいのかどうか、すんなりできない自分で踊りながら、違和感をちゃんと見つめて上演したいと思う。


後藤ゆう
吉野菜々子
横山彰乃
と斎木穂乃香の4名で京都ロームシアターで上演する予定。

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20211130

JCDNによる「海底に雪」振付家インタビュー受けました。合わせてご覧下さい。
▲ Interview

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20211130

「海底に雪」は元々横山が出演しないトリオとして作った作品で、初演出演者は後藤ゆう、小山衣美、水越朋だった。
元々、この3人でないとできないけど、反面、誰に変わっても上演できる作品として作ったもの。
再演で自分が踊ってみて、あの3人だったから出てきた動きだったなと感じている。

トリオで45分あった作品は再演に再演を重ねて約35分。
1回目の再演は2021年の3月。出演者は後藤ゆう、SHIon、横山彰乃。

2021年12月30日は2回目の再演。
なので1年足らずで再演するわけだけど、自分がこんなに出ることになるとは想像していなかった。

リクリエーションによって半分くらい変わったけれど、振りがかっちり決まっている作品に自分が入ってみて、踊ることに疑問を感じた。
自分が踊ることで気づいた。
あえて以外の演技をしたくない、という気持ちがありながら、ほぼ決まっている作品に新しく自分が入ることで、踊り手としての自分の心持ちのようなものが全然追いついていなかった。
うっすらと根底に居続けた違和感を、たまたま人に話す機会があり、その話の延長から「ダンスって捧げものって感じですよね。良いですよね。」(こんなざっくりとした言い方ではないが)と言われ、なるほどと思った。というかその感じ知ってるし、そうやってきたはずなのに、自作自演ではなく純プレイヤー、ダンサーとしてどう作品を踊るか。
自分から離れたい。

作家サイドとダンサーサイドと話が混ざっていて大変読みにくい文面だな...。
完全に、というのは今作は当たり前に無理であっても、ダンサーとして、上演までの残りの時間付き合ってみたい。

他出演者の話も聞いてみます。載せれたら載せたい。

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20211212

「わたし」ではない

ダンスって、その身体をまるっと使っているせいだと思うけれど、自己表現と言われることが多い。全然しっくりきていなかった。
「表現」ならわかる。

ダンサー、プレイヤーは職人と思うことがある。
空っぽの身体に、それらをどれだけ落としていけるか。鍛錬し、培ってきた身体でしかできない動きがある。反対に、手癖のように染み込んでしまった動きを、どの作品になってもやるのではなく、この作品のためだけの動きを作りたい。
自戒を込めて「振付家」と呼びたい。

動きなんて、与えられて寸分の狂いもなく知覚して同じように動けると思えない。それぞれの身体を通過して体現される。そのそれぞれの身体が、どのように通過するか。わたしはダンサーの立場の場合、その部分が見ていてもやっていても、興味深い。

今この身体は一時的な器に過ぎないとしたら。演じているつもりはないけれど、たまに疑問に思う。決められた道筋をなぞるのと、演じるのは何か違いがあるのだろうか。
演じるというより、成るという言い方の方がしっくりくる。成っているものが見たいのだと思う。自分の場合。

というようなことをダンサーとかと話したいなと思うのだけど、仰々しくなく、居酒屋で話したい。

作品のことは書き過ぎると面白くない気がしてきた。

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20211228

動きが感覚に呼応する。その瞬間が見たい。
感染するし、憑依する、腐るし、生成する、絶えず変化している。
流動的で、確かなことがない。

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20220104

ペットボトルに囲まれて
舞台美術のためにいろんな人に協力してもらい集めたペットボトル300本以上を一本一本手伝ってもらいながら、全てクリンチノットで連結した。梱包するために部屋中がペットボトルになった時に、日常生活における自分の周りのプラスチックごみの量を可視化したらこのくらいかなと思い、ゾッとした。
これが人間一人の何ヶ月分か何日分かのプラごみ。
環境問題をテーマとした作品では全くないのだけど、工程を踏むことで考えることはある。考えただけではどうにもならないのだけど。終演後はできるだけ小さくつぶそうと思った。
梱包して京都に発送。

意味の話ばかりが、あっという間にゴミのように落ちていくなぁと思っていた。
最近ようやく納得したことがある。
踊っている意味、というか、自分はダンスで何がやりたいのだろう(いや、ダンスをやりたいんだが、というど直球の回答じゃダメらしい)、というものの答えで「言葉にならない感覚」という説明をよくしていたけれど、これはちょっと違うなと思い始めた。
詩があるように、的確な言葉はなくとも多分文章にはできる。でも、理論や理屈じゃねぇ〜とわたしの場合は思っている。含みきれないので。
筋肉や皮膚の記憶というのがあるという一説を読んで、共感した。わたしが筋肉って書くと、脳筋かよと思われそうだけど、そういう意味ではないです。気になる人は自分で調べてもらうとして。
わたしはとにかく含みきれないそこいらを、思い切り叩き落としたり燃え上がらせたりしたい。やっぱり、ダンスって大事なのは文章や理論ではなく、生身の身体だと思うのです。
だよね。と、ようやく年末にすとんと思えたおかげか、全く関係ない気もするけれど、12/30の本番は一回本番には珍しく、あぁなんか良い本番だった気がする、としみじみ思った。
根気よく付き合ってくれたゆう、ななこ、ほのか。
初演そして再演に出演してくれた、えみさん、ともちゃん、SHIonちゃん。
彼女たちがいたから出来上がった作品でした。
初演、再演、再演を経て、作品と共に人間の身体が変わっていく様を見ることができて、面白かった。想像して自分の身体に落とし込む。やり終わって身体がめちゃくちゃに変わっているダンスがしたい。魂や霊性が宿る。
いつも開演前、色んな意味を含めて「楽しんで〜」と言って送り出すのだけど(最近、その言い方人を選んだ方が良いと言われて、確かに....と考えていたところ)、「全身全霊」ってめっちゃ当てはまるなと思って、開演前にダンサーに「全身全霊で〜」と言ったらにやにやされた。

当日パンフレットの文章載せておきます。



よく知っている底から水面を見上げ
知らない水平線を思い浮かべず
音の届く先まで睡り
どこかの花を想う

インターネットが当たり前にあり、簡単に遠く離れた「世界」のことを知った気になる。情報の濁流の中で、隠れているものについては十分にわからないまま、次の流れに飲み込まれていく。
海の底にも、人の目には触れない流れがきっとたくさんある。潜ってみないとわからないことだらけで、本当は何も知ってなんかいない。それでも、絶えず変化している不確かの中で、通り過ぎることのできない違和感を見つめながら想像する。

初演、再演、そして今回。それぞれのダンサーたちがいなければ生まれなかった作品です。風景を眺めるように(観方は自由ですが)、味わって頂けたら幸いです。意味や物語ではない、身体の動きが感覚に呼応する、その瞬間に立ち会えると願って。


またいつかどこかで。